LA 1979、夏。

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初めての海外は、一ヶ月と少しのホームステイだった。Gパンにスニーカーを履き、WALK ABOUTという、ノースフェイスのコピーモデルだった安物のデイパックを背負って伊丹の空港に行ったら、他の参加者はスーツ着てサムソナイトを押していた。そしてアッチ着いても、みんなが勉強してる間に、わたしはこんなヤツと遊んでばっかりいたのである。(^^;;

ホストファミリーに、アメリカのナニが好きだと聞かれて「ハーレィデェービッドソン(笑)」と答えたら、やがて家の前にHarley-Davidsonのチョッパーが止まった。ホストマザーだったPaulineの娘、PennyのダンナのKennyがなんとバイカーだったので、それならひとり(ジャンキーが)いるよとばかりに呼んでくれたのだ。Kennyは、Pennyと、アメリカ人のこどもとは思えないくらい人見知りではにかみやの、Kaiyaというえらくかわいい女の子と3人で、ホームステイ先からバイクで数分のところに暮らしていた。しかし何やって喰ってたんだろう。どこかの集積所からわけのわからないがらくたを拾ってきては、ガレージの奥でイヂっていた。当時スモーカーだったわたしに、タバコは体に良くない、マリファナにしろ、と教えてくれた。そしてその場で、翌年も、その次に会ったときも、無造作にビニール袋に詰めたヤツを手渡してくれた。マリファナはステキなものだけどファッキンなヤツらにはわからないからと、自分のビニール袋は靴下の下に入れていた。自由なヤツを恐れる自由の国、アメリカでは、当時は(いまもか?)マリファナさえ非合法だった。もちろん、わたしもその日から真似をして、あの国では、靴下の中にビニール袋を入れるようになった。
Kennyは、わたしが知り合ってから数年後、バイクをHONDAに乗り換えてまもなく、どこかのフリーウェイで死んだ。Paulineが送ってくれた、LosAngels Timesかなんかの事故の記事は、彼はヘルメットを被っていなかった、と締め括られていた。きっといつものようにラリって走ってて、H-Dならオッケーのスピードだったはずのところが、DOHCのV4エンジン積んだMAGNAは速すぎたんだろうな、なんて思った。事実はわからない。とりあえずルイジアナのトラックに中指突き立てて、ショットガンで撃たれたわけじゃないとは思うけど、でも、Kennyはどこまでも自由なヤツだったし、ある意味、Kennyはわたしにとってのキャプテンアメリカであり、そしてビリーだったのである。
タンデムシートの、少し線の細い少女は、Chikage(千景かなあ)という名前だった。この時の何枚かの写真は、ホントに楽しそうに笑っているけれど、数年後、脳の病気で亡くなったと伝え聞いた。LAへ向かったPanAm機で、たまたま席が隣だった縁で、このときも一緒にいたんだと思う。残念ながらこの一ヶ月の、いろんな出来事の記憶に埋もれて、わたしには彼女の想い出がほとんどない。もしかしたら、このときもラリってたのかもしれない。彼女は亡くなる前、LAの、あのグラデーションの空の下で、H-Dのタンデムシートで謳歌した自由を思い出しただろうか。あの光を、色を、匂いを、そして風を。

ステイした街のH-Dディーラーで、1着の革ジャンと何枚かのパッチを買い、パッチは自分でGジャンに縫い付けて身をH-Dで包みながら、わたしは日本に帰ってYAMAHAに乗っていた。あれから27年かかって、わたしは「ハーレィデェービッドソン」を手に入れたことになる。海の近くへ住み処を移して、時間の流れ方も大きく変わったから、H-Dなんてバイクにも乗ろうという気になったわけだけど、まだ腕時計を捨てる勇気はない。

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