今日朝9時の線量は0.039μSv/h。そしてこの24時間は38〜40で推移していたようだ。昨日の毎日の夕刊(のweb)に、楢葉町で牛を飼ってた牧場とその主の、その後の記事が出ていた。一度は牛を見殺しにしようと思ったこと。やはり見殺しにはできずに戻るようになったこと。戻ったら、記事を読んだ誰かが、たぶん自力で生きるチャンスを与えようと牛を逃がそうとしていたこと。その結果死なずにすんだはずなのに死んだ牛も多かったこと。詰られるような張り紙をされたこと。そして動物の残留放射線量を調べる検体とされるため11年の年末、安楽死される牛たち。最後となる牛の大きな目から涙がこぼれたこと。
どうせ元気に育ったって食肉になって喰われるだけの牛たちだったかもしれない。しかしこの記事を読んで泣く人を、感傷的だと笑うわけにはいかない。ただふつうに暮らしていた多数の人々とその生活の場所が、自身に非のない原因で被曝し、家を、仕事を、暮らしを奪われた。そしてそんな人の数だけ、たぶん他人が泪を流すに値する、悲しいドラマがあるのだろう。
この国の政治家や行政を担当する者たちに、一番欠けているのは、もしかすると想像力じゃないのか。東大卒に代表されるような、目の前に山のように積まれた、ごちゃっとしたなんだかんだをどひゃーっと処理したり、あるいは見えないことにしちゃう能力には長けているんだけど、そもそも基本的なことをどうしたいんだとか、なにがどうあるべきかとか、人がどういうときに喜び、どういうことで悲しむのか、そういうことに考えが及ばないんじゃないのか。原発事件以来の、復興だと称するなんだかんだと、なし崩しの原発行政をみていると、そんな気がするんだよなあ。
そういう意味では、文学者である都知事は実によかった。ビジョンとか理想があったし、それを思いついたりカタチにするだけの想像力も逞しかった。なのにたかが5千万だとか、どうでもいいことを汲々とする連中に足元を掬われちゃったんだよなあ。結果、いまの知事が誰だったか、もう思い出せないようなことになっちゃった。ホント、いまだれが知事なんだ。一方、もともとそういう世界出身だったり世襲系のやつらは、8億円をウニャウニャしちゃったって、市民団体が告発状を東京地検に提出するまで行政も司法も動かないし、本人も党代表を辞任しただけで、相変わらず国会議員のままでのうのうと政治活動を続けている。都知事を辞職した猪瀬に比べたら、そんなもの責任なにも取ってないのと同じなんだが。